東京のすし屋の娘でもある、江戸前寿司伝道師Satomiです。
皆さんは、お寿司をどのような時に食べますか?
贅沢をする時
何かのお祝いをする時
お葬式の時 など
人によっても違うかも知れませんね。
今回は、すしに関する贅沢禁止のお話をしたいと思います。
すしの起源と江戸時代のすし
すしは元々、主に魚を塩と米飯で発酵させて酸味を出したが、これが「酢シ」という名称が生まれている起源とも言われています。
そして、発酵期間を短くしたすしが生まれ、江戸時代に江戸っ子が待たずに食べられる「すし」を作ったという説があります。それが現在の酢飯の誕生です。
そして、江戸時代に握り寿司ができました。そのため、握り寿司は東京の郷土料理と言われています。
奢侈禁止令とは
1841(天保12)年5月 水野忠邦による天保の改革が始まりました。
そして、10月には江戸に贅沢を禁止する奢侈禁止令が出されました。
この背景には、経済的理由があります。
当時、一次生産品である米を中心とした農作物の収穫にかかる年貢に財政収入を依存していました。 経済が発展し、贅沢品嗜好品の需要が増えると一次生産品の価値は相対的に下落します 。
そうするとそこにかけている税を基本とする武士階級の収入や国庫とも言える幕府の歳入も相対的に下落する。だからこの贅沢を禁止する法令が出されたと言われています。
すしに関しては、20文から30文しているすしが名指しで槍玉に挙げられているが、60文もする高価なすしを得るものもいたと言われています。
どんな処分をされた?
『藤岡屋日記』によると、高価なすしをうる34軒のすし屋が50日の営業停止処分を課さられたと言われています。
『守貞漫稿』によると、手鎖の刑だったと言われています。手鎖は罪人の両手に手錠をかけ、手が使えないようにする刑罰です。
天保の改革で、値段の高いすし店、約200人が手鎖の刑にあったという説もあります。
その後の寿司の価格
禁止令の出た後の8月、すしの価格も見直されました。
『物価書上』や『鮓直段取調書上』によると、
約4.2文だった並寿司は、3.7文
約8.3文だった上寿司は、 6.7文になったと言われ、
『守貞漫稿』によると、天保藩命後、全部4文、8文のみになり、高価なすしが姿を消したと言われています。
しかし、水野忠邦罷免後、値上がりし、すし屋は息を吹き返したと言われています。
Youtube
参照:Wikipedia すしのひみつ 江戸四大名物食の誕生 Man@bow Yahoo Finance
まとめ
贅沢品で経済も潤いそうと思った方もいるかも知れません。しかし、武士階級の収入などの問題もあり、奢侈禁止令が出たと考えるとしかたなかったのかも知れませんね。
すしに関してだけでも、それぞれの時代に、色々な出来事があります。そう考えると、日本のことだけでも知らない事だらけなんだろうなと感じますね。
すし屋へ行ったら、その時々を楽しめたらいいですね!
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